考えさせることと誘導尋問(的なもの)
おっす!かけるです!
今日からこんな感じでいきやすw
なんか、今までは自分を隠してた感じがあったんで、
「俺」っていう人間を深く知ってもらう意味で、包み隠さず、本音もバンバン書く
「かける全開!」って感じで書いてきます!w
(いきなり変化してうざいかもしれませんが、これが本当の「俺」なので、気分を害した場合、読まなくても大丈夫です。)
では、本題行きます!
教えるという名の誘導尋問
ある記事で、仁禮彩香さんという方のお話があったんですね。
仁禮さんの通っていた幼稚園では答えを教えられるというよりも、
常に問いかけられるという感じだったらしくて、
一方、小学校に入ると道徳の授業「喧嘩の解決の方法」を考えるというテーマの授業が
あり、そこではすでに教科書の的な正解が存在していて教師はそれにたどり着かせるように話を進める。
仁禮さんはそこに疑問を持ちました。
俺も、学校のそういったところは正直わけわかんないなって思います。
そのことについてはおいおい書いていきますが、俺は、思ったんです。
これって…誘導尋問?
犯人を追い詰める時とかに「お前がやった」という答えに無理やり導こうとするあれ。
まさにそれだなと確信したわけです。
いや、おかしいでしょw
子ども達に向かって、先生が誘導尋問してるんすよ?!
逆になんでそれがいままで当たり前みたいな。絶対違うんですよ!
前に目的と手段って話をしました。その記事がこちら
kakeru-hedgehogs-8.hatenadiary.jp
この仁禮の小学校の時の場合喧嘩を止める方法なんていくらでもあるはずで、
それがもし、「気の済むまで殴り合いすればいい」みたいな答えだとしても
別に間違えではないわけですよ。「喧嘩を止める」ことが目的だから。
気の済むまで喧嘩したら、最終的には喧嘩って終わるじゃないですか。
ある意味そういった意見を持っているのは大人ではなく、。
柔軟な脳から新たな発想を生み出せる子どもたちです。
そこに大人が勝手な知識を植え付けるから可能性のある子どもが少なくなってく。
そんな悪循環の始まりこそ先生による誘導尋問。
全てを子供達に委ねる
俺も小中生にバスケを教えてて実際、誘導尋問的になっちゃうことってあるんです。
ただ、それはまぎれもない事実を教える時はいいと思うんです。
1+1=?これを2だと教える時は誘導尋問になっても仕方がないと思います。
(そもそも、これを教えている日本の教育もおかしいのかもしれませんが。
それについては今度記事で書きます。)
でも、答え、事実が決まっていないものを考えさせる時、
そこにまぎれもない答えはないわけですから、
誘導尋問のようになっていいはずがありません。
ただ、こういっている俺の意見すら間違っている可能性もあるわけです。
特に道徳的な勉強に関しては答えがないので、
その考え全てを子ども達に委ねるべきだと考えます。
それによって大人が学ぶことすらあるでしょう。
俺もバスケを教えていて、この練習はこのためにあるだろ!って思っていても、
教わっている側からすると、そうではなくて、また別のことをイメージしてたりするんですね。ただ、それが間違っているわけではないので、そこも尊重しつつやってます。
心理的なことも踏まえる
ここで少し心理的なものを加えます。皆さん、「マズロー」という方ご存知でしょうか。心理学者で人間の欲求についての話で有名です。
そのマズローさんが考えた人間の欲求についての画像がこちら
このピラミッドの上から2番目、「集団から価値ある存在と認められ、尊重されることを求める」とあります。これは答えを出した時に、「そうだね!」と言ってもらえる。
というようなことです。
子ども達は特に欲求のまま生きているわけですからそう言われて、欲求が満たされて
とても嬉しいんです。
嬉しいとまた頑張ろう、たくさん考えよう。というモチベーションにもつながります。
それがさらに子ども達を成長させていくのではないでしょうか。
完璧な答えなんてないものに対して誘導尋問。
子ども達に考えさせ、それを尊重することで成長も見込める。
どちらが子ども達にとってより良い影響を与えるのか。
答えは簡単ですよね?(←これも誘導尋問w 俺の意見関係なしに皆さん自身で
考えてみてください!)
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